
ティントレットの最後の晩餐
構図が生み出すドラマ
光と色彩の絵画、ヴェネツィア派
水の都ヴェネツィア。歴史的建造物と運河、そしてそこに暮らす人々の日常が見事に溶け合った、唯一無二の風景を目にすることができるこの街は、言わずと知れたイタリアを代表する観光地です。そしてヴェネツィアは、美しい景観だけでなく、美術史においても重要な役割を果たしてきました。今日は、そんな水の都で花開いた「ヴェネツィア派」の絵画をご紹介しましょう。
16世紀のイタリア美術を語るとき、「ヴェネツィア派」はとても重要な存在です。フィレンツェを中心とするトスカーナ派が、輪郭線による明確な形づくりや素描を重視したのに対し、ヴェネツィア派の画家たちは、色彩と光によって空間や感情を表すことを大切にしました。この違いの背景には、ヴェネツィアの都市環境が関係しています。海と運河に囲まれたヴェネツィアは湿度が高く、当時主流であった漆喰を直接壁に塗って描くフレスコ画には不向きな土地でした。そこでヴェネツィアの画家たちが選んだのが、壁や木板ではなく、キャンバスに描く油絵の技法です。油絵具は発色が良く、また乾くまでに時間がかかるため、色を重ねることで深みのある色を生み出すことができます。こうしてヴェネツィア派の画家たちは、線で形をとらえる描き方ではなく、色と色の重なりによって形を「浮かび上がらせる」描き方を追求していきました。
ティツィアーノ(1490年頃-1576年)やヴェロネーゼ(1528年-1588年)は、その代表例といえるでしょう。彼らの作品に見られる深みのある色使いと、明暗のコントラスト、そしてダイナミックな構図。そこからは物語の叙述性よりも、感情的な深みを見ることができます。ヴェネツィア派が「正確なデッサン」よりも、「見る人の感覚に訴えかける絵画」を目指した流れだと言えるでしょう。
革新を求めた画家、ティントレット
そうしたヴェネツィア派の中でも、とりわけ独創的な存在がティントレットです。1518年頃に生まれ、生涯のほとんどをヴェネツィアで過ごしました。若い頃にティツィアーノの工房に関わったとされますが、ローマでミケランジェロの人体表現に強い衝撃を受け、すぐに独自の道を歩み始めます。ティントレットの面白さは、ヴェネツィア派の色彩表現を受け継ぎながらも、それをさらに独自の方向へ押し広げた点にあります。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂の食堂に描かれた《最後の晩餐》は、そうした彼の個性が存分に発揮されている作品です。一般に「最後の晩餐」と言えばレオナルド・ダ・ヴィンチの作品のようにキリストと十二使徒が横一列に並ぶ構図を思い浮かべるでしょう。しかし、ティントレットはこの伝統を大胆に崩します。テーブルは画面奥へ斜めに伸び、鑑賞者は場面を横からのぞき込んでいるような位置に立たされます。使徒たちは語り合う者、身を乗り出す者、驚きの表情を見せる者など様々な瞬間で切り取られ、場面にはざわめきと動きが満ちています。
また、ティントレットはスピードを重視する画家でした。丁寧な細部の表現よりも、勢いのある筆致で一気に描き上げることを好みました。その荒々しさが強いエネルギーと緊張感を作品全体に与えています。
光の表現も見逃せません。天井から下がるランプの光に加え、キリストは周囲に神秘的な強い光を纏っています。現実世界と、聖なる出来事とが、二重の光によって同時に示されているのです。さらに画面上方には、煙や光と溶け合うように天使の姿が描かれています。
ティントレットの”研究”
この並々ならぬ光の表現への執着もまた、ティントレットならではと言えるでしょう。もともとヴェネツィア派の画家達は色彩や光の表現に長けていましたが、ティントレットは小さな立体模型を作り、ろうそくの光を当てながら構図や陰影を研究したといわれています。光と影の効果を実際に試しながら絵画を組み立てていたのです。それを思いながら再度この作品を見ると、模型を動かしつつ最もドラマチックな構図を探しているティントレットの姿が目に浮かぶようです。
ヴェネツィアを訪れたなら、ぜひこの《最後の晩餐》の前に立ってみてください。きっと、物語を遠くから眺めるのではなく、光と影が交差するその空間に、自分も入り込んでいることに気づくはずです。闇の中から差し込む強い光。その光によって浮かび上がる色彩と感情。ティントレットが切り開いた新しい絵画の世界を、静かに感じ取ることができるでしょう。
イタリアの余韻を、食卓へ
絵の中に流れるヴェネツィアの光と空気に心を動かされた方は、ぜひ食卓からもイタリアの奥行きに触れてみてください。
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