アレッツォ ピエロ・デッラ・フランチェスカ

アレッツォ深堀り③ピエロ・デッラ・フランチェスカ

アレッツォに残る芸術作品の中で、最も有名なのがサン・フランチェスコ教会にある「聖十字架伝」です。作者はルネサンス初期の画家、ピエロ・デッラ・フランチェスカ。同時期に活躍した「春」や「ヴィーナスの誕生」で知られるボッティチェッリの陰にかすみがちではありますが、明瞭な色彩や量感に富む人体の描写、何よりも遠近法に基づく秩序高い空間構成でとりわけ20世紀から評価の高まった芸術家です。画家でありながら数学者でもあり、「絵画の遠近法」という学術論文も残しているピエロは、どのような作品をアレッツォに残したのでしょうか?

北はミラノから中部のフィレンツェやリミニにも作品を残しているピエロですが、生まれはアレッツォ北部の小さな村ボルゴ・サンセポルクロ(現サンセポルクロ)です。サンセポルクロの文書館が火事となり書類が焼失したため、正確な生年月日は不明のまま。ヴァザーリがのちに残した記述などから1406~1416年の可能性がありつつも、一般的には1412年~1415年の間で記されていることが多いです。サンセポルクロでさまざまな学問の習得をした後、芸術家としての初めての記録は1430年。サンセポルクロで活動していた画家アントニオ・ディ・アンギアーリの助手として支払いを受けたものです。その後もサンセポルクロで活動した後、1435年頃にはフィレンツェへ。ドメニコ・ヴェネツィアーノの助手として働いていましたが、彼からは色彩豊かで明るい作風を、そしてマザッチョが残した作品からは力強さや威厳を感じさせる作風を取り入れたとされています。

ピエロがフェッラーラやリミニで活動しているころ、アレッツォではサン・フランチェスコ教会の主祭壇裏の礼拝堂に「聖十字架伝」の制作が始まっていました。1447年に地元の商人バッチ家がビッチ・ディ・ロレンツォに依頼しましたが、彼は1452年に重い病で急死。そこで白羽の矢が建てられたのが、隣町のサンセポルクロのみならず、イタリア各地で評価があがっていたピエロだったのです。

「聖十字架伝」は13世紀に流布した黄金伝説にある、キリストが磔になった十字架の木の奇跡を描いたもの。ピエロの代表作のひとつであり、現存する彼の作品の中で最も大規模なフレスコ画でもあります。正面、右壁面、左壁面に描かれるのは、旧約聖書からはアダムの死、ソロモン王とシバ女王の会見などの場面が、新約聖書からはコンスタンティヌス帝とマクセンティウス帝の戦い、ヘラクリウス帝とホスロー帝の戦い、聖木の運搬、十字架の発見などの場面。深遠で壮大な品格は叙事詩の域にまで達すると評された、ルネサンス絵画の中でも最も重要な作品のひとつとされています。

「聖十字架伝」が有名すぎてあまり知られてはいませんが、アレッツォのドゥオモ内にもピエロの作品は残っています。薄暗い内部をまっすぐ歩いていくと、左身廊の聖具室へ向かう扉の近くに、「マグダラのマリア」が浮かび上がるように見えてきます。彼女はキリストの弟子のひとりで、キリストの死と埋葬そして復活も見届けた重要な人物。静かに毅然とした態度で立つ姿には、風格が感じられます。

ピエロ・デッラ・フランチェスカが好きな方は、アレッツォを起点として彼の故郷のサンセポルクロや、近郊のモンテルキでピエロの作品めぐりをしてみてはいかがでしょうか?

日伊通訳・コーディネイター。2001年にフィレンツェ留学、結婚ののち、2005年よりトスカーナ北部の田舎に在住。トスカーナの小さな村、郷土料理やお祭り、料理教室などのプログラムを紹介するサイト「トスカーナ自由自在」を運営。著書に「イタリアの美しい村を歩く」、「イタリア流。世界一、人生を楽しそうに生きている人たちの流儀」など。